【暗黒文化論】「少女のパンツを守る」とは?
今回の投稿はあくまでメモ。
続きを読む【暗黒文学論】東犬二「死刑執行人」の思い出。
Tumbr大粛清によって失われてしまった貴重な文化の一つ。東犬二「ダークエイジ2 穢される乙女たち」シリーズ#2「死刑執行人」の回覧文化。tumbr上では各国語版が出回り世界中のニンフエット(女児が男児を成長速度で抜く小学校高学年頃から再び追い抜かされる中学生頃までの「ヒトというよりまだケモノに近い(自称)」気の荒い少女達)層に愛読されてました。
日本語版
ベトナム語版(何故か一番キツい「ゴメンだわ」場面を省力)
私の様に当時この界隈で小娘向けエロ画像Diggerをやってた人間は幾度もこれに命を救われています。匿名解放状態に浮かれハーレクイン気分で「折角だからワルい事がしたい」と期待に目を輝かして徘徊する小娘集団に囲まれた時、確実に沈黙させる効果があったからです。そもそも第三世代フェミニストの姉様達が頒布しているらしく、これを撒くと彼女らもほぼ自動的に集まってきて「後始末」を引き受けてくれた思い出。
「当事者の脳内でどう処理されるのか」断片的にしか情報を得てないのですが、どうやら男子がポルノとして読み飛ばしてしまう部分の随所に「アプリケーター(挿入体)」の効能が埋め込まれており最後のページで「バカいわないで。死んでもゴメンだわ」のセリフが自分の口から発せられ、自分の首がゴトリと床に落ちるのを感じてヒッとなる模様。おそらく万能ではないのでしょうが「折角だからワルい事がしたい」なる下心を狙いすましたかの様にへし折る効果だけは抜群だったのです。
【画像倉庫】2022年5月分
【画像倉庫】永井豪の世界
【画像倉庫】いわゆる「乙女ゲー」と「ボーイズラブ(BL)」について。
蝶の毒 華の鎖(2011年)
いばら姫(2013年)
弟との関係を修復したいと思う姉が、近親で関係を迫られる学園ゲーム。
参千世界遊戯~Multi Universe Myself~(2013年)
本作の舞台は、今から100年以上先の未来の「トウキョウ」。ここでは、懸賞金のかかった犯罪者を追うことで生計を立てる「バウンティハンター」という存在が公に認められている。主人公のトモエ・ナカハラ(CV:中島沙樹)もそんなバウンティハンターの1人で、とくに高額賞金の凶悪犯を追跡するアグレッシブなタイプである。
犯人の1人を逃がした時、トモエは並行世界にある「もう1つの地球」と、そこにいる「もう1人の自分」の危機について知る。
この世界では数十年前に、並行世界にある「もう1つの地球」が発見されていた。国は犯罪などの懸念から一部の関係者を除き関与をシャットアウトしているのでトモエをはじめほとんどの人はその存在をおぼろげにしか知らない。そこにはよく似てはいるがどこか決定的にズレた世界で、姿こそ違えど命を同じくする「もう1人の自分」がいて、片方が死ぬともう1人も死んでしま宇野である。ここにトモエの逃がした犯人が逃げ込み、もう1人のトモエを殺そうとしている……という事態に。トモエは自分の命を守るべく、別の世界へと足を踏み入れる。
ライコウ(CV:竜ヶ崎要)
逆転大奥~想ひ淫れて~ (2015年)
浅岡 藤丸(Asaoka fujimar ) 。 CV:佐和真中
千家 周(Senga Amane)。 CV:袴田三郎
賀島 伊織(Kashima Iori) 。 CV:左高蹴
吉原彼岸花 久遠の契り(2015年)
豪華絢爛な町の裏側で欲望が渦巻く新吉原遊郭を舞台に「本当の恋」を知ってしまった最上位の花魁である主人公の切なくも激しい恋を艶やかに描き上げる。
二階堂記念病院 ~愛と欲望の甘い罠~ (2015年)
寺西 樹 (CV: 深川 緑 )
構成が随分と男性ポルノ寄りなのが気になりました。「もっと背面から全身を捉えて男の尻の卑猥な動きを!!」とか「もっと下腹部の筋肉を曝け出せ!!」とか、そういうニーズはなかったんでしょうか? おそらくこの辺りが男性向けポルノと女性向けポルノを互いに逆元に取った場合の核、すなわち正則部なのでしょう。もちろん細部は異なり、そのそれぞれが非正則部を構成する訳です。
最大の違いは「筋肉美へのあくなきこだわり」といえましょう。
そして(BL)
DRAMAtical Murder(2012年)
二次創作の世界
そんな感じで以下続報…
【画像倉庫】いわゆる「被虐の系譜」について。
「苦痛と快楽が比例するエロティズムが実存する」なる前提に立ったサド公爵(Marquis de Sade,1740年~1814年)時代のSM観は今日ではもう通用しません。それには近世におけるデカルト座標系の登場や解剖学の視覚表現充実(着彩された精緻な解剖図が大量に出回る様になり、解剖標本や解剖模型も充実した)を背景とする機械的生物論や機械的宇宙論の副産物という側面もありました。
①その一方で芸術家が権力や富裕層のパトロネージュを受ける形でしか生存不可能だった時代の欧州において「神話や聖書に取材してそれと対応づけたエロティズム」から離れた作品を残すには、相応の「風変わりなパトロン」を必要とした。そう、日本において荒木村重の子として生まれ福井藩主松平忠直のパトロネージュを受けた岩佐又兵衛(1578年〜1650年)がいわゆる「残酷絵」を残した様に。
②例えば明日をも知れぬ毎日を送る身上ゆえに本能的欲求に忠実に生き様としたコンドッティエーレ(condottiere、イタリア傭兵隊長)をパトロンに迎え「ウルビーノのヴィーナス(伊Venere di Urbino、英Venus of Urbino、1538年)」を残したティツィアーノ(Tiziano Vecellio、1488年/1490年頃〜1576年)。
②あるいは「フランス宮廷芸術は古代ギリシャ・ローマ時代の質実剛健さに回帰すべき」と主張する新古典派から「都落ち」を強要されつつ(王宮から縁遠く、それ故に「国王の取り巻き連中」に反感を抱いていた)田舎貴族達のパトロネージュが受けながら「ぶらんこ(1767年頃)」を残したフラゴナール(Jean Honoré Fragonard、1732年〜1806年)。ちなみに有名な「ブランコ」の絵、下からスカートの中を覗き込んでいる変態紳士こそがこの絵画の発注主だったりする。
③または産業革命期における科学実証主義の発展と統計学の登場を背景に可視化された売春組織、貧困層、反社勢力、そしてそれらの端々に垣間見られる精神病的病理…19世紀自然主義文学やグラン=ギニョール演劇はこれらに取材する事で成立した。
エミール・ゾラ「居酒屋(L'assommoir,1877年)」
ルーゴン・マッカール叢書第7巻。貧民の悲壮な破滅を描く。
ルーゴン・マッカール叢書第9巻。客を破滅させながら自滅していく高級娼婦を描く。
「グラン・ギニョール(Grand Guignol)恐怖劇場」開設(1897年~1962年)
劇作家オスカル・ムトニエがモンパルナスにあった席数約300の小劇場(礼拝堂の再利用)を買収/改修して開設。浮浪者、街頭の孤児、娼婦、殺人嗜好者など、折り目正しい舞台劇には登場しない「公共の視線から黙殺されてきた人々」を多く登場させ、妖怪譚、嫉妬からの殺人、嬰児殺し、バラバラ殺人、火あぶり、ギロチンで切断された後も喋る頭部、外国人の恐怖、伝染病などありとあらゆるホラーをテーマとする芝居が、しばしば血糊などを大量に用いた特殊効果付きで演じた。開設当初はエミール・ゾラの「実験小説論(Le Roman expérimental,1879年~1860年)」に基づいて限りなく実録物に近い実験演劇を演目としようとしたが、度重なる官警の取り締まりを逃れる為に次第に「荒唐無稽な」「血生臭い」「こけおどしめいた」猟奇的芝居へと変貌していった。客動員数ばかりでなく「観客のうち何人が失神したか」を劇の成功・不成功を測る尺度とした嚆矢。次第にマンネリ化して最後は映画などとの競争に敗れる形で閉館された。
特に人気があったのが同じ人気女優が惨殺される別の物語の連続上演で、江戸川乱歩の1930年代通俗小説や映画「武士道残酷物語(1963年)」に影響を与える。ちなみに江戸川乱歩の通俗小説では、連続殺人犯が次々と毒牙に掛ける美女(レビュー嬢、カフェ女給、豪邸の小使い、事務員、海女など当時の女性職を網羅)に明瞭なる共通点が見出され、映画「武士道残酷物語」では代々悲壮な最期を遂げる悲劇の家系の当事者を中村錦之助 (萬屋錦之介)が1人7役で演じ分けている。
そしてこうした歴史の掉尾に現れたのが団鬼六などが残したSM文学だったのです。
これらの作品群に登場する女性は、サド文学以来の伝統に従って「無垢なる存在であるが故に穢される悲劇的存在(一方的被害者)」か「汚辱に喉まで浸かった毒婦(被害者側にも加害者側にも登場)」に完全二分されるのが常でした。そんな感じで以下続報…
【画像倉庫】いわゆる「魔女系コンテンツ」について。
2010年代、国際SNS上のLに集った女子匿名アカウントは劇場版アニメ映画「悲しみのベラドンナ(1973年)」と東犬二のエロ漫画「ダークエイジ2穢される乙女たち(2005年)」第二話「死刑執行人」の関連投稿がセットで流布していました。まず「悲しみのベラドンナ(1973年)」がどういう作品だったかというと…
「教会と領主が支配する中世フランスのある村で、若い2人の男女、ジャンとジャンヌが結婚式を挙げた」
「しかし、貧しい農夫のジャンは領主に貢ぎ物を捧げられなかったので代償にジャンヌは領主に処女を奪われ、さらに家来たちにも次々に陵辱される。
「身も心も傷ついてジャンのもとに帰ったジャンヌの前に、やがて悪魔(CV:仲代達矢)が現れた。ジャンヌは悪魔に、働き通しで疲れ果てているジャンを助けてくれと懇願する。ほどなく、ジャンヌが紡いだ糸が高値で売れるようになり、高い税金を納められるようになった。ジャンは村の税取り立て役人に出世するが、貧しい農民たちから戦争のための資金を思うように調達できず、罰として領主に左手首を切り落とされる。するとまたしてもジャンヌの前に悪魔が現れ、力を与えるかわりに魂を渡せと迫りながら、ジャンヌの体を貪っていく」
「やがてジャンヌは妖しい魔性を持った金貸しとなり、村の経済を動かすようになったが、彼女の存在を快く思わない領主の奥方や村人たちに、悪魔つきと呼ばれて激しく追い立てられる。酒浸りとなっていたジャンにも見捨てられ、絶望したジャンヌは、逃亡の果てにたどり着いた深い山中で、ついに悪魔と契りを交わして魔女となった」
「その後、黒死病が蔓延し、大勢の人々が死んでいった村で、ジャンヌは薬草によってひとりの村人の命を救う。噂が噂を呼んで、村人たちはジャンヌのもとへ集うようになり、夜毎サバトが行なわれた。その影響力が領主の城内にも及ぶに至って、領主はジャンヌを処罰するより味方に引き込んだほうが得策と考え、ジャンを介してジャンヌを城に呼び寄せる。しかしジャンヌは提示されたあらゆる厚遇を拒否したため、領主の怒りを買い、火刑に処されてしまう」
一方「死刑執行人」は十人の既婚者を寝とった淫売として処刑される女死刑囚と死刑っ執行人の一夜の邂逅を描きます。
併せて読むとジュール・ミシュレ「魔女(1870年)」における女性観を第三世代フェミニストが興味深い形で批判的に継承している様が見て取れたりします。